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セルゲイ・プロコフィエフ (1891~1953)  交響曲第6番 変ホ短調 作品111

prokofiev-gravestone-thumb苛烈な戦いが繰り広げられていたロシア。プロコフィエフは映画監督エイゼンシュテインと共に、モスクワから遠く離れた中央アジアのカザフスタン共和国の首都、アルマ・アタ(現在のアルマトイ)にいた。戦火を避けての疎開である。そしてこの地で、エイゼンシュテインが撮影を進める《イワン雷帝》の音楽を作曲する。ロシア革命を避けて出国したプロコフィエフが、ソ連に「帰国」してからおおよそ10年が経つ頃のことだ。

 

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セルゲイ・ラフマニノフ (1873~1943) 交響詩《死の島》の構造分析と自演盤

別稿のように、ラフマニノフが霊感を受けたのはベックリンの油彩画ではなく、M.クリンガーの「死の島(ベックリンの原画による)」という銅版画だった。後に原画を見て明るい色調に驚き「これを見ていたらあの曲は書かなかっただろう」と述べたという。

 

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リヒャルト・ワーグナー (1813~83) 歌劇 《リエンツィ》 序曲

wagner thumbワーグナーがケーニヒスベルクの指揮者をつとめていた23歳の頃、E.B.リットン(英・1803~73年)の小説「コーラ・ディ・リエンツィ」(1835)に触発され、38年にリガで台本を完成。リガ→パリ→ドレスデンと遍歴する間にスコアを書き上げた。ラインガーの指揮によって42年10月20日ドレスデン宮廷歌劇場で行われた初演は、画期的な大成功となり、同劇場の楽長就任へと繋がった。その後〈さまよえるオランダ人〉〈タンホイザー〉で地盤を固めたかのように見えたが、1849年に勃発した革命の際、宮廷楽長の身でありながら革命側に加担したために、一転、政治犯として終われる身となり、スイスへと逃れることになる。

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フランシス・プーランク(1899~1963) 演奏会用組曲 《牝鹿》

les-bisches-thumb新しき才能

世紀が変わる少し前の1899年、パリの極めて裕福な家庭に生まれたフランシス・プーランクは、ピアノを達者に弾く母の影響を強く受け、幼い頃からピアノに親しむ。8歳の頃にドビュッシーの音楽を初めて耳にし直ぐにその虜になったが、小さな手ではドビュッシーのピアノ曲は満足に弾くことができず、幼いプーランクはとても悔しがったという。成長したプーランクは本格的にピアノを学びはじめるが、その頃から作曲も手がけるようになる。そしてまた、パリに集う若く才能溢れる音楽家達とも親しく付き合うようになり、前回の演奏会でその交響曲第三番を取り上げたオネゲルらと共に、〈六人組〉と呼ばれた若き才能溢れる音楽家グループの一人として名を広く知られるようになる。

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千葉フィル史 第5話

これからは、余談になります。当時私(Hr科 石垣)は「ケンメリ」の6のスカイラインに乗っておりました。(この間「ケンメリ」の話をしたら「なにそれ」といわれてしまいましたが、 このホームページの読者ならわかりますよね?) 

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千葉フィル史 第3話

それでは、続きをはじめます。このページの更新遅れてごめんなさい。筆者のタイマンな性格のせいなんですね。でもこの性格(のんびりしてること。でも瞬発力のあること) っていうのはもしかすると千葉フィルの性格に似ているのかもしれません。

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セルゲイ・ラフマニノフ (1873~1943) 交響詩《死の島》

rachmaninovベックリンの《死の島》

ピアノ協奏曲第2番の大成功によって、交響曲第1番の初演の失敗を払拭したラフマニノフ。そして交響曲第2番の初演は喝采をもって迎えられた。幸せな家庭を築き私生活も充実して、作曲家としても円熟を迎えた頃、ラフマニノフは一枚の絵から着想を得て一編の交響詩を作曲する。それが交響詩《死の島》である。

 

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セザール・フランク(1822~1890) 交響曲 ニ短調

franck-photo以前は、それほど感じなかったのだが、ブルックナーに深入りした後で、改めてフランクを聴いてみたら、2人の共通点があまりにも多いのに改めて驚かされた。それを説明すると、この曲の解明が殆ど済んでしまうので、共通点を列挙してみよう。

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リヒャルト・シュトラウス(1864~1949) 交響詩《ドン・ファン》

donjuan-thumbドイツ・ロマン派最後の輝き

リヒャルト・シュトラウスは1864年、バイエルン王国の首都ミュンヘンで生まれた。父親は名ホルン奏者。R.シュトラウスは早くから音楽の才能を発揮し、20歳を過ぎる頃には既に名指揮者として名を知られる存在となっていた。そしてまた、この頃から本格的な作曲も手がけるようになる。1888年、《ドン・ファン》完成。翌年の作曲家自身の指揮による初演は大成功であった。ここから、R.シュトラウスの快進撃が始まる。数々の交響詩は当時から今に至るまで、常にオーケストラのレパートリーであり続ける。

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千葉フィル史 第4話

さて、金子先生とともに発足した千葉フィルですが、まず初めの活動は各校OBに千葉フィルへの 参加を呼びかける案内状の発送と夏の合宿の企画作りでした。

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千葉フィル史 第2話

「自模!!!、四暗刻単騎!!!!!」「ドッヒャー!」「ガチョーン!!(ちょっと古いね)」 「ウッソー!!!」。千葉フィル創成期の金子先生のお宅での会話(!?)である。メンバーは先生、総務(団長)、 副総務、後のコンマスであった。

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