ディアギレフとロシア・バレエ団 (下)

diaghilev 2 120x148ロシア・バレエ団はパリに於いてその名の通り、ロシア的なものを売りとした。西ヨーロッパにとって、ロシアは半分はヨーロッパに属しながらも、もう半分はアジアに属したものであり、異国情緒を感じさせるに十分なものであった。時は20世紀の初頭、あらゆるものを商品にして消費し尽くす資本主義が最初のピークを迎えた頃のこと。そして場所はパリ、人と物が頻繁に行き交うシステムが完成し最新のモードを次々に産み出す享楽の都、であった。

注目すべきは、ロシア・バレエ団が演目の中心としたのはロシア的なものばかりでは無く、例えば『クレオパトラ』『シェラザード』(音楽はリムスキー=コルサコフ)といったアジア的・東方的な情緒を感じさせる演目をレパートリーに組み込んでいたことである。このことは、ディアギレフがロシア・バレエ団の売りがロシア的なものに限らず、パリの人々が異国情緒を感じる要素を敏感に感じ取っていたことを物語っている。

しかしその異国情緒は、あくまでパリの人々に消費しやすいように、いわば加工されたものでしかなかった。ディアギレフとロシア・バレエ団の活動は帝政ロシアや新生ソヴィエトと何らかの公式なつながりを持ったことは無く、ロシアの地に於いて公演を行ったことも一度も無かった。それはあくまでロシア的なものであり、決してロシアそのものの象徴では無かったのである。

ロシア革命後・第1次世界大戦後、モダニズムが席巻する1920年代、ロシア・バレエ団の演目に『鋼鉄の歩み』という演目が取りあげられたことがあった(音楽はプロコフィエフ)。時は1927年、新生ソヴィエトの歩みが力強いものとして他の国々に受け取られ始めた頃である。『鋼鉄の歩み』は社会主義を好意的に捉え、ディアギレフは亡命ロシア人や社会主義に反発を抱く勢力からの反発を予想せざるを得なかった。しかし若干の反発はあったものの、公演は大成功に終わる。これはパリの知識人に(第2次世界大戦の後に至るまで)社会主義を好意的に捉える者が多かったこともあるが、ロシア革命から10年経って社会主義と新生ソヴィエトを「商品」として消費する余裕がこの当時のパリに生まれたことを示している。これは消費可能な異国情緒の一つのバリエーションといえるかもしれない。

しかし、ディアギレフの心中はもう少し複雑であった。ロシア革命後、彼は故郷から絶たれた、いわば「根無し草」としてパリの社交界をさまようこととなる。『鋼鉄の歩み』を取りあげたことに見られるようにディアギレフは新生ソヴィエトに対して好意を感じていたのだが、ついにその地を訪れることはなく1929年、ディギレフは急死を遂げる。自らの内なるロシアと、外に対して消費しやすい形に加工したロシア。オリエンタリズム、商品となる異国情緒。ディアギレフの葛藤は、20世紀の文化史をまた彩る一つの特徴でもあったといえよう。

(なかたれな - 第20回演奏会に寄せて)

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