ブラームスが交響曲第1番を完成するまで長い年月を要したことは有名。完成したのは1876年、43歳の時だった。
原因はベートーヴェン。ハイドンの104曲からモーツァルトが41曲と半減するのは、77年対35年という生涯とリンクしているが、御承知のようにベートーヴェンは9曲しか書かなかった。同じような曲を書くのを嫌ったからで、多少似ているのは第1番と第2番ぐらい。
ブラームスが交響曲第1番を完成するまで長い年月を要したことは有名。完成したのは1876年、43歳の時だった。
原因はベートーヴェン。ハイドンの104曲からモーツァルトが41曲と半減するのは、77年対35年という生涯とリンクしているが、御承知のようにベートーヴェンは9曲しか書かなかった。同じような曲を書くのを嫌ったからで、多少似ているのは第1番と第2番ぐらい。
アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団創立50周年記念委嘱作品。1938~39年に作曲され、39年11月23日にウィレム・メンゲルベルク指揮、コンセルトヘボウ管弦楽団により初演された。ハンガリ一民謡「くじゃくは飛んだ」は、かつてオスマン帝国の支配下に置かれたマジャール人を囚人になぞらえ、彼らの自由への情熱を歌ったものである(この状況を「鎖なき囚人」と呼んでいた)。これはまた、作曲当時に勢力を強めていたファシズムに対して、自由と人間性の擁護を訴えることを意味していた。
〈6番〉の翌年1905年、45歳の時に完成。〈大地の歌〉を完成した08年(48歳)、プラハでマーラー自身の指揮により初演された。
〈6番〉で古典的な4楽章形式に挑戦したマーラーは、最も得意とする5楽章形式に戻している。調性的には第1楽章から第4楽章までが短調、第5楽章で長調に陽転するという“暗→明”の図式が特徴だが、第2・第4楽章に「ナハトムジーク・夜の歌」と題した楽章を置いたのが新機軸で、それを印象づけるべく第4楽章にはマンドリンとギターを使用。オーケストレーションは更に色彩的になり、第1楽章では新たな楽器、テナー・ホルンをソロ楽器として用いている。
大戦後の1960~61年に作曲、61年にムラヴィンスキー指揮のレニングラード・フィルによって初演。レーニンに捧げる曲として作曲されたため、革命の年〈1917年〉という標題が冠され、各楽章に具体的な標題が付けられている。ショスタコーヴィチの交響曲の中でも、革命を歴史的な史実として描いた点は重要なポイントだ。
1922年(58歳)この作品を作曲した当時のR.シュトラウスは、交響詩や楽劇の主要作品で成功をおさめ、ドイツ・オーストリア系作曲界の頂点に立っていたが、当時のヨーロッパは1918年11月に終戦した第1次大戦の荒廃の直後。舞台作品も贖罪など真摯なテーマが求められていたのだがシュトラウスはそれに反発。「時代の悲劇にばかり拘るこうした風潮には我慢ならん。私は人々を喜ばせたいのだ」と言って、お菓子など全く見当たらない時代だったにもかかわらず、人々が以前と変わらない日常生活を送っているかのように、この作品を書き上げたのだった。
合唱入りの大作〈クレルヴォ〉の後も、標題付きの交響曲を構想していたシベリウスは、1894・97年にヘルシンキで既に演奏されていたチャイコフスキーの〈悲愴〉を知り、滞在中の1898年にベルリンで聴いた〈幻想交響曲〉に強い刺激を受けた。同年4月に新たな交響曲に着手し、翌99年の初めに完成。同年4月26日、ヘルシンキで自身の指揮で初演した。成功だったが、細部を手直しし現行版となった。
交響曲第6番と7番の中間にあたる1883年(43歳)に作曲。同年5月16日、アドルフ・チェフの指揮によりプラハで初演された。既に交響曲的な構成と、民族音楽的な素材の融合を自家薬籠中の物としていた時期の作品だけに、チェコ的な素材が充実した交響詩のように散りばめられている。スケルツォもカプリチオーソも、自在な遊びの意味を含んだ言葉だが、そのタイトルどおりの小品と言えよう。
作曲されたのは、38歳の1894年だから、初期の大作〈クレルヴォ交響曲〉より3年後、〈カレリア〉組曲の翌年、99年に書かれた交響詩〈フィンランディア〉よりは5年前にあたる。但し〈フィンランディア〉のような愛国的な色合いはなく母国の大自然をおおらかに讃えた賛歌になっている。
曲を特徴づけているのは、主題の“息の長さ”。第1主題は ①a + ①b のように長大で、歌曲や賛美歌として発想した楽想を転用したようにも思える。チェロ+ヴィオラとクラリネットに始まる ①aと、木管をクラからオーボエに替えた ①b から成るが、①b の後半にヴィオラのソロを加えているのが効果的だ。
20世紀の作曲家は、当然のように新しい技法を開拓しようと競い合っていたが、ソヴィエト国内に留まった作曲家達は、党が「社会主義リアリズム」を掲げて、前衛的な傾向を批判したため、平易で親しみ易い作風に転じざるを得なくなる。
プロコフィエフは1918年(27歳)に交響曲〈1番・古典〉を初演した後、革命を逃れて日本経由でアメリカに渡ったものの、鬼才として畏れられたデビュー時の牙は次第に円くなり、1934年(43歳)にはソ連に帰国。その後に作曲されたバレエ〈ロミオとジュリエット〉〈シンデレラ〉、歌劇〈戦争と平和〉等は、意図的にロマンティックな解り易い語法に転じたせいもあって、国内外で評価を高めることになった。
今回は同じバレエ2曲でも、片方は組曲で、チャイコフスキーを代表する人気作。一方は全曲で、しかも殆ど演奏されない“幻の大作”。そのため〈くるみ割り〉が軽い書き方になってしまったのを、ご了承頂きたい。
3大バレエの中では最後に位置し、交響曲第6番〈悲愴〉の前年にあたる1892年(52歳)に完成・初演されている。帝室マリインスキー劇場からの依頼は、ドイツの作家E.T.A.ホフマンによる童話「くるみ割り人形と二十日ねずみの物語」によるバレエ。これを〈椿姫〉の作者デュマ・フィスがフランス語に翻案脚色し、首席振付師プティパが台本化した。
レスピーギに教会旋法を使用した曲が多いのは、妻のエルザがグレゴリオ聖歌の研究者だったことが大きい。〈古代舞曲とアリア〉や〈ローマ3部作〉だけではなく、〈グレゴリアン・コンチェルト〉と題したヴァイオリン協奏曲も書いているが、この〈教会のステンドグラス〉も、そうした作品の一つだ。