グスタフ・マーラー(1860~1911)交響曲第9番

失われたユートピアを求めて

20世紀を代表する哲学者・社会学者であるテオドール・アドルノは、また同時に、ベルクに師事して作曲を行うなど、音楽に対しての深い造詣を持っていた人物だった。そのアドルノが1960年に発表した著書『マーラー 音楽観想学』は、難解な内容にも関わらず、折からの「マーラー・ルネサンス」の中で大きな影響を持った書物となった。その中でアドルノはマーラーの音楽に対し、このように述べている箇所がある。

「マーラーの音楽は、子供の頃の記憶の痕跡の中にユートピアをしっかり持っている。その痕跡はあたかも、ただそれだけのために人生は生きる価値があるのだというかのようである。」

マーラーの音楽は、激しく荒れ狂う嵐から一転して夢見るような美しさへと、その容貌をがらりと変えるような箇所がそこかしこに存在している。このような感情表現の起伏は、いわばマーラーの音楽の最大の特徴の一つであるが、それは、マーラーが完成させた最後の作品となったこの 《交響曲第9番》 でも変わりはない。《9番》 は、全編に「死」や「崩壊」といったネガティブなイメージが支配するが、時折、はっとするような美しい箇所に足を踏み入れる。それこそ、マーラーの記憶の痕跡の中にある「ユートピア」なのかもしれない。

しかし、アドルノは次のように続けている。「けれどもこの幸福が失われたものであり、失われたものとしてはじめて幸福となること、その幸福とはかって決してそうではなかったものであること、そういった意識が彼にとっては同じほどに真実としてそこにある。」ユートピアは、それを失って初めて、ユートピアとして認識される。マーラーは決して、その生涯の中で「ユートピア」と感じられるところに辿り着いたことはなかった。マーラーのその意識は、彼の交響曲の中に確かに反映されている。「死」、「崩壊」、それと「喪失感」。そしてこの時代、この意識は決してマーラー独りが感じたものではなかったのである。

ベートーヴェン以来、特にドイツ・オーストリア圏の作曲家にとって交響曲とは、作曲者の持つ理念と世界観の反映の場となった。ベートーヴェンは高らかに理想とその勝利を歌い上げたが、それはフランス革命直後の社会の反映に他ならない。しかし時代は過ぎ、マーラーの生きた時代、社会は至る所で綻びを見せるようになる。マーラーは、そんな社会と世界を交響曲の中に塗り込んだのであった。結果的にマーラーが生涯に完成させた最後の作品となった《9番》は、マーラーの芸術上の頂点というだけでは無く、この当時の社会や世界、言ってみれば人類の精神の一つの断面が表されたものとなっている。《9番》に続く作品である《10番》が、そういった役目はもはや終えたかのように、妻アルマとの個人的な内面世界を表現することに終始しているようであることを考えると、この《9番》こそが、マーラーの様々な理念が集大成された作品であると言えよう。

ただ、マーラー自身がこの時期に死の影に怯え、《9番》の完成直後にこの世を去っていることから、《9番》を「死」と関連づけるのは決して間違いではないのだが、この時期のマーラーは自らが指揮した《8番》 の初演を大成功に終わらせ、アメリカ合衆国にも招かれ旺盛な指揮活動を行っている。マーラーの活動の最盛期は実はこの時期であり、そんなエネルギーが充溢していた時期だからこそ、否定的な世界に立ち向かい音にすることが出来たのだとも言えるのだ。実際、マーラーは《10番》で、《9番》のさらにまだ先へ行こうとしているのだから。また、マーラーの作品に《9番》に限らず「死」を主要な主題としたものは数多くあるし、マーラー以外も、この時代の多くの芸術家は「死」を主題として多くの芸術作品を作り上げている。決して、《9番》はただ「死」の恐怖に怯えただけの作品ではない。

1909年夏に作曲開始。1910年4月1日に総譜の清書が完了。1911年5月18日に死去したマーラーはこの作品を音として聞くことができなかった。初演は同年6月26日、ワルター指揮のウィーン・フィルによってなされた。

マーラー流ポリフォニー

《9番》の大きな特徴の一つとして挙げられるのが、緻密に書き込まれたポリフォニー(対位法)である。旋律と伴奏といったスタイルではなく、複数の旋律が折り重なって一つの音楽を形作る。《9番》の1楽章は、マーラーの書いたものの中でも、それが最も際立っている音楽となっている。ダイナミクスの強弱によって主旋律に相当するものの判別は可能だが、一旦はその背後に押しやられたものであっても、それは決して単なる伴奏に終わるものではない。このようなポリフォニーの音楽は、バッハの時代にはよく用いられたものであり、それは大教会の広大な空間を埋めるために発展したものであった。しかし、マーラーのポリフォニーはそれとは起源を全く別のところに持つ。マーラーのポリフォニーの起源は、民衆の雑踏、人々のざわめきの中にあった。

マーラーは、メリーゴーランドやブランコ、さまざまな屋台のお店、軍楽隊の演奏までもが聞こえてくるという祭りの場に通りかかった際、次のように語ったと伝えられている。「ねえ聞こえるかい?あれがポリフォニーというもので、僕はこういうところから学んだんだ。」そういったマーラーのポリフォニーがもっともシンプルな形で表現されているのは、《交響曲第1番》の3楽章であろう。冒頭のぎこちないコントラバスのソロによる旋律は、ヨーロッパに広く伝わる民謡による。3楽章ではこの民謡が次々に折り重なるカノン(輪唱)が展開されるが、これがマーラーのポリフォニーの原点であった。そしてそれは、教会で鳴り響くポリフォニーとは全く異なるものである。

《9番》では、このマーラー流ポリフォニーの手法が極限まで展開されている。冒頭、全曲を貫くこととなる「告別」主題を最初に演奏するのが、普段は旋律を担当する第1ヴァイオリンを支える役割にまわることが多い第2ヴァイオリンに担わせたのも、その一例であるといえよう。それは、それまでの西洋音楽のあり方からすれば逸脱であるかもしれない。しかし、マーラーにとって、そのようなことは問題では無かった。マーラーにとっては、世界を作曲し尽くすことの方が、遥かに重要だったからである。その目的の前には、伝統的な作曲技法が設けた壁は、何の意味も持たなかった。

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