グスタフ・マーラー(1860~1911)交響曲第10番 補筆5楽章版

mahler-1909時は1909年、交響曲第9番を完成させたマーラーは、少なくとも公的な場面においては、その人生において幾度目かの絶頂の時を迎えていた。1907年に心臓病との診断が下され、一時はひどく落ち込んだマーラーであったが、この頃にはこの病気と上手く付き合っていく術を見つけたようで、作曲・指揮の二つの活動に猛烈な取り組みを見せている。ニューヨーク・フィルとは数多くの演奏会を指揮し、作曲は西洋音楽の一つの到達点と言っても過言ではない交響曲第9番を完成させる。そして、マーラーはこの第9番に留まることなく、そのさらに先を行く交響曲第10番の構想を描き始めていた。また、この年の9月には累世の大作である交響曲第8番の初演を自らの指揮で行い、大成功を納めていた。マーラーのその灼熱のエネルギーは、まさに燦然と光り輝いていたのである。

しかし、光が強ければ同時に影もまた強くなる。マーラーの妻であるアルマは、その影の中にいた。いや、アルマが影そのものになってしまったのだろうか。この時期、アルマの健康状態は悪化の一途を辿る。その症状は肉体的なものではなく、精神的なものであった。後年、アルマは自ら「ひどいヒステリー」であったと述べている。その原因は、家庭にあった。上の娘の病死、結婚前にはずっと続けていたが結婚を境に夫によって禁じられた作曲、夫とは決して一致しない音楽観、そして何よりも、夫との間に超えがたくあるように感じられる深い、そして暗い溝。療養のため、アルマは残った下の娘と共に、夫から暫く離れて温泉地に療養に出かける。そこでアルマは、現在の夫であるグスタフ・マーラーとの出会いにも勝るとも劣らない、ある男性との衝撃的で運命的な出会いを果たす。その男の名は、ヴァルター・グロピウスといった。ヴァルター・グロピウス、若き才能溢れる、一人の建築家。

グスタフ・マーラー、アルマ・マーラー、そしてこのヴァルター・グロピウス。この三者の関係とそれに直面したマーラーの心の動き、動揺。それらのものは、このマーラーの交響曲第10番の中にしっかりと刻み込まれている。マーラーの音楽は、密接にその作曲家の人生と関わっている。それは、この10番も例外ではない。いや、この10番こそが、マーラーの人生が最も色濃く反映された作品である。10番を演奏すること、そして10番を聴くこと、それはマーラーを体感することに他ならない。

未完のトルソーとして

1911年5月、マーラーは交響曲第10番を完成させることなく世を去った。その死は心臓病に起因するものではなく、その年の2月に罹った喉の病気、咽喉カタルが原因だった。死後に残された楽譜やスケッチの類は、未亡人となったアルマの管理下におかれることとなる。ここで時は流れてマーラーの死後10年以上たった1923年、アルマは娘婿となった作曲家クルシェネク(小澤征爾がウィーン国立歌劇場の音楽監督に就任して一番最初に取りあげたのが、クルシェネクのオペラ《ジョニーは演奏する》であった)に未完に終わった交響曲第10番の譜面・スケッチを見せる。全部で五つあった楽章の中で、クルシェネクは比較的完成されていた第1楽章と第3楽章を一部補筆して、この二つの楽章を演奏可能な状態にする。この二つの楽章は、1924年、フランツ・シャルク(ブルックナーの交響曲の改訂者として名を知られる人物である)の指揮によってウィーン・フィルハーモニーによって演奏された。これが、断片ながらもマーラーの交響曲第10番が初めて公開の場で音となって起ち上がった瞬間、その時であった。

またちょうどこの頃、アルマの許可の元に、10番の譜面・スケッチのファクシミリ版が限定ながらも出版される。そのファクシミリ版を目にした人々は、その交響曲のアウトラインが最初から最後まで読みとれること、そしてその音楽が、非常に深くかつ感動的であることに気が付く。そして、決して少なくはない数の人々がこう考えた。「このスケッチを基にオーケストレーションして、全5楽章をオーケストラで演奏させることができるのではないだろうか。」このファクシミリ版の出版を契機として、10番の補筆5楽章版への動きが、幾つかの地点で静かに進行し始めるのだった。

国際マーラー協会のスタンス

マーラーが残したスケッチは、四つの段(四声部)の簡略化された形で音符が書かれており、所々に楽器の指定が書き込まれているというものだった。このスケッチの形で残されたのが、第3楽章の途中からと第4・5楽章。第1・2楽章と第3楽章の途中までは、オーケストラの譜面の形で残されている。これらはしかし、第1楽章でさえも完全に完成したものとは言い難い。例えば第1楽章では、ほとんどのパートがフォルテッシモで演奏しているにも関わらず、ビオラが空白で残されている部分がある。この10番においてビオラは決定的に重要な役割をマーラーから与えられた楽器であるが、そのビオラが空白であるということは、マーラーはまだビオラのために特別な音符を残したのだと考えられる。しかし、それでも第1楽章がそのままでも演奏に耐えうるのに対し、第2楽章の空白は大きく、とても看過できるものではない。そもそも、第2楽章はオーケストラの譜面の形で書かれてはいたが、同じ小節でも楽器によってその拍の長さが異なる部分もあるように、その中身に整合性はなく、未だ草稿の域を出ないものであった。第3楽章は最初の30小節がオーケストラの譜面として書かれ、これとは別に最初から最後までが簡略譜の形で残されている。第4楽章と第5楽章はただ簡略譜が残されるのみ、であった。

マーラーの自筆譜やマーラー自身の書き込みのあるスコア・パート譜を可能な限り総動員して検証し、その結果をマーラーの最終意志として校訂版を出版している国際マーラー協会は、この10番は第1楽章しか出版していない。それも補筆がされていない形であるので、クック版に比べると音符の数は少ない(先に述べた部分など)。しかし、この第1楽章を単独で取り出した場合においても一つの音楽として完結している印象を与えることから、全集版での第1楽章のみという形でも頻繁に演奏される。一般的に、マーラーの交響曲第10番というと、このマーラー協会版による第1楽章のみを指すことが多い。

クックによる補筆5楽章版への道

しかし、先に挙げたファクシミリ版を目にし、その音楽が感動的でかつ補筆可能と判断した幾人かの人々は、残された譜面に補筆を行い、全5楽章をオーケストラで演奏できる譜面を作成することを目標とする。そんな一人に、デリック・クックという名のイギリス人がいた。1919年に生まれたクックは、ケンブリッジで学んだ後、BBC放送に勤め音楽番組の製作を手がける。BBC放送は1960年にマーラー生誕百周年を記念する特別番組を製作することとなったが、その番組で、クックは未完の交響曲第10番を演奏することはできないかと考えた。クックはドイツ出身の作曲家ゴルトシュミットの助けも得て、第2・4楽章に一部未完の部分を残しながらも、補筆5楽章版を一応完成させる。これは1960年12月19日、ゴルトシュミット指揮による演奏で放送された。これが、クック版が初めて世に出たその時であった。

しかし、譜面の管理者で、マーラーの作品の著作権者でもあったアルマ(この頃、幾度かの結婚を繰り返したアルマは、最初と最後の夫の姓をとって、アルマ・マーラー=ヴェルフェルと名乗っていた)は、このクックの試みに激怒する。夫の草稿に手を加え、音にしたに飽きたらず、なんとそれを放送までするとは!アルマ・マーラー=ヴェルフェルは、この演奏の再放送や以後の新しい試みを、著作権者として一切禁止とする。マーラーの交響曲第10番の補筆5楽章版の生命は、ここで一度、失われる。この時点で、アルマはこの10番の補筆5楽章版の音を、一切耳にしていない。それを聴くことを、かたくなに拒んでいたのだった。

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