魔都、サンクト・ペテルブルク
モスクワ音楽院卒業後、モスクワを中心に活動していたラフマニノフだったが、ロシア帝国の首都でありモスクワと並ぶ音楽都市だったサンクト・ペテルブルクにも活動の場を広げることする。しかしそれは、ラフマニノフにとっては苦難の始まりとなった。
ラフマニノフは大いなる意欲を持って交響曲第1番を書き上げる。1897年3月15日、この意欲作はサンクト・ペテルブルクにて初演が行われた。指揮はグラズノフ。しかし、この初演は惨憺たる失敗に終わる。
失敗に終わった原因は今に至るまで色々と取り沙汰されている。一番有名な話が、指揮をとったグラズノフが酒に酔っ払っていて、ちゃんとした演奏が出来なかったというもの。しかしどうやら、これは真実では無いらしい。この初演が行われた演奏会自体は、チャイコフスキーの珍しい作品がメインに据えられた演奏会であった。このチャイコフスキーの作品の練習に時間を取られて、ラフマニノフの交響曲第1番には十分な練習時間が割かれなかったという。グラズノフが酒に酔っ払っていようが素面でいようが、もとより、満足な演奏は出来なかったのである。惨憺たる演奏。ペテルブルク音楽界の中心にいたリムスキー=コルサコフは冷淡な態度を示し、批評家は猛攻撃を加える。ラフマニノフにとって、サンクト・ペテルブルクは魔物が住む街、魔都であった。
復活のラフマニノフ
精神的に大打撃を受けたラフマニノフ。作曲の筆はパタリと止まってしまう。しかしラフマニノフはこの時期、指揮者としての活動を開始している。優れた音楽才能を持った指揮者ラフマニノフは瞬く間に高い評価を獲得する。交響曲第1番に冷淡な態度を取ったリムスキー=コルサコフだったが、ラフマニノフの指揮は高く評価していたという(この辺りの逸話は、何やらマーラーとブラームスを思いださせる)。最初はモスクワの私設歌劇場の副指揮者として出発した指揮者ラフマニノフは、遂にはボリショイ劇場の指揮者のポストを獲得するのだが(このキャリアアップの道筋もマーラーとよく似ている)、これはまた少し後の話。 指揮者として活躍しながら、少しずつ作曲も再開するラフマニノフ。しかし、恋心を寄せていた幼馴染の結婚も影響したのか、心はどこか晴れない。そんなラフマニノフの様子をみかねた知人が、ラフマニノフに精神科医に治療に行くことを勧める。こうして、ラフマニノフは精神科医ダーリのもとを訪れるのであった(フロイトを訪れるマーラー!)。
ただ、ラフマニノフがダーリを訪れたのは1900年の初頭のこと。既に交響曲第1番の失敗から随分と年月は経っている。また、この間のラフマニノフの指揮活動は目覚ましいものであった。ピアニストとしての腕前も披露したロンドン公演は大絶賛、作曲中のピアノ協奏曲第2番の演奏も依頼される。交響曲第1番初演失敗の傷は残っていたかもしれないが、それはもはや直接的なものでは無かったであろう。またこの時期、ラフマニノフには幸せな出会いが続いていた。文豪チェーホフ、結核で治療中の若い才能ある作曲家、カリンニコフ。金銭的にも苦労するカリンニコフに出版社を紹介するなどしてカリンニコフを励ましたラフマニノフであったが、その実、ラフマニノフが励まされていたのかもしれない。さらにはイタリア旅行にも赴く。南国の太陽、南国の憧れ。
そしてラフマニノフは復活を果たす。1901年10月、完成したピアノ協奏曲第2番の初演がモスクワにて行われる。かってない大喝采がラフマニノフを包んだ。作曲家ラフマニノフは帰ってきた。遥かに強い、大きな存在となって。
そして、再び魔都へ
ここから、作曲家ラフマニノフの快進撃が始まる。1902年4月には従妹のナターシャと結婚する。幸せな結婚だった。また1904年の秋シーズンから、ボリショイ劇場の副指揮者も務めている。厳しいリハーサルを重ねたラフマニノフの指揮する公演は大絶賛を受けた。また、指揮者ラフマニノフは歌劇場に伝わる伝統的な悪弊を次々に撤廃したという。(またしてもマーラー!)
私生活も演奏活動も充実したラフマニノフ。そして1906年、ラフマニノフは2作目の交響曲の作曲を開始する。翌年に完成したこの交響曲、ラフマニノフが初演の地に選んだのは、何処であろう、サンクト・ペテルブルクであった。ラフマニノフは魔都に帰ってきた。その手に交響曲第2番のスコアを携えて。
1908年1月、初演。この初演は大成功に終わる。ラフマニノフに送られる賛辞の声。遂に、ラフマニノフは魔都の固く閉ざされた扉を開けたのであった。
交響曲第2番を作曲中のラフマニノフは、同時に作曲していたピアノソナタ第1番を交響曲よりも気に入ったと語っていたという。しかし、出来上がった交響曲第2番はラフマニノフの名を高める傑作となった。美しく息の長い旋律とドラマティックな盛り上がり。そしてそれはまた、19世紀ロシア音楽が交響曲の分野において達成した一つの到達点でもあった。
(中田れな)