ショスタコーヴィチ (1906~1975) 交響曲第7番〈レニングラード〉

「戦争が始まる」

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アンドレイ・ジダーノフ

時計の針を戻して1941年6月22日、独ソ不可侵条約を破りドイツ軍がソ連に進軍を開始する。不可侵条約を結んでいたこともあり、ソ連はドイツ軍への備えが全く出来ていなかった。不意打ちだった。ドイツ軍は瞬く間にソ連の奥深くまで入り込んでいく。ソ連の最高指導者スターリンはうろたえ、しばらく満足な指令を発することが出来ないほどだった。ソ連は混乱の極みにあった。レニングラードにいたショスタコーヴィチは、友人と大好きなサッカーを見に行く途中で開戦の知らせを聞いたという。レニングラードも混乱していた。ドイツ軍の進撃目標の一つにレニングラードがあると分かり、大急ぎで準備を始めるが、誰も彼もが混乱していた。無駄な陣地の構築に人々を動員させるレニングラードの政府高官。この時期、レニングラードを取り仕切っていたのは共産党の高官、アンドレイ・ジダーノフだった。そして、レニングラードの軍を率いるはクリメント・ヴォロシーロフ。ロシア革命後の内戦で活躍した英雄だった。英雄のはずだった。戦車と航空機による新しい戦争の姿に、全くヴォロシーロフはついていけていなかった。こんな人物が、レニングラード防衛の指揮をとることとなったのである。ボタンの掛け違いの始まりだった。ここから先、ショスタコーヴィチから離れるようであるが、ショスタコーヴィチと関わりの深い人物の名前が出てくることもあり、しばらくお付き合い頂きたい。

内戦時代から活躍したヴォロシーロフはスターリンの友人だった。軍事上の才能はともかく、共産党に対する忠誠心には全く疑いがなかった。この時期、ヴォロシーロフが大任をまかされた理由にはそのようなことがあったらしい。独ソ戦の当初、ソ連軍はドイツ軍の機甲部隊に全く歯が立たなかったが、ソ連軍の弱体化を招いたのはスターリンの大粛清だった。トゥハチェフスキーの粛清である。ミハイル・トゥハチェフスキー。「赤いナポレオン」とも呼ばれたソ連軍の軍事的天才、芸術を愛好しショスタコーヴィチと付き合いがあったソ連軍の若き司令官は、機械化の必要性を熱心に主張した。スターリンとも対立したが、後にスターリンはトゥハチェフスキーの主張を認め、トゥハチェフスキーの主張するソ連軍の近代化に許可を出している。しかし、ヴォロシーロフとトゥハチェフスキーは全くそりが合わなかった。主張も、人間性も、悉く反目し合ったのである。そして、危ういバランスのまま迎える大粛清の時代。ヴォロシーロフが自分に反目することは無いがトゥハチェフスキーはそうではない。スターリンがそう判断した時、バランスは一気に崩れた。逮捕・処刑されるトゥハチェフスキーとその一派。トゥハチェフスキーも処刑場でその命を終えた。ソ連軍の近代化はここに頓挫し、そして戦車と飛行機で固められたドイツ軍の進撃を許すこととなる。

そんなヴォロシーロフと、常にスターリンの顔色を伺うジダーノフが指揮をとるのである。最悪だった。軍事上意味の無い陣地構築に人々は駆り出され、深く思慮されぬまま義勇軍募集がかかる。志願したこととされ、強制的に義勇軍に行かされる者もいたという。そして、二人は開戦当初に、後のレニングラードの街の運命を考えると、とてつもない失態を犯している。ドイツ軍がレニングラードに向かった場合にはレニングラードは封鎖され食糧難が訪れることは、開戦当初から予想されていた。そのため、モスクワの指導部はレニングラードにたくさんの備蓄用の食料を送ることを命令した。それを断るジダーノフとヴォロシーロフ。断った理由は明確ではないが、メンツの為だとか、借りを作りたくないだとか、そんな理由が挙げられている。さらには、レニングラードの街に残ってた食料を一カ所に集める指令を出した。この備蓄庫は、ドイツ軍がレニングラードの街に達した時にすぐにドイツ軍の砲撃で焼かれることとなる。備蓄庫の件は、作業に駆り出された一般市民も大勢いることから、すぐに人々に知られることとなる。暗い予感と漂う絶望、そして、この指導者達はあてにならないという不信感。この不信感が決定的になる事態が訪れる。レニングラード市当局は、強制的に子供たちの疎開を決定する。両親との満足な別れの時間も取れずに列車に詰め込まれる子供たち。しかし、鉄道も混乱していた。子供たちで満載の列車は線路上に止まり長い時間そのまま待たされることになる。なんのために急いだのか?目的地にたどり着く前に、子供たちの食料は既に無くなっていた。そして決定的な悲劇が訪れる。ある列車が郊外の駅に到着しようとする頃、飛行機が駅の近くを飛んでいるのが見えた。ドイツ軍だった。疎開を進める市政府の政治家と官僚は、ドイツ軍の進路も把握していなかったのである。ドイツ軍は容赦なく子供たちに機関銃を向ける。子供たちの殆どは命を失い、かろうじて助け出されてレニングラードに戻った数少ない子供たちは何と言われたか。「夢を見たんだ。このことは黙っているように。」市当局は、疎開列車が攻撃され子供たちが殆ど死亡したことを伏せた。しかしこのような情報は口コミで伝わっていくものである。当然、レニングラード市民、特に子供を持つ親達は大パニックとなった。こういうことが続いた結果、一般市民の市当局への信頼は全く無くなった。そんな状況において、レニングラードの街はドイツ軍に包囲される。

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