「じゃあ、フーガが書きたいの?」

writing-a-fugueラフマニノフ交響曲第3番の中間部。ここでフーガ(曲の一部分でフーガの要素を使った音楽が展開されるので、正式にはフガート)が展開されるのだが、なぜここにラフマニノフはフーガを書いたのだろうか。無論、音楽的必然性だけがあって特に意味など無いのかもしれないが、ここで少々空想を働かせてみる。

筆者が思い出すのは、ガーシュインの逸話である。《ラプソディ・イン・ブルー》などでジャズとクラシックの融合を果たしたガーシュインだったが、自身はクラシックの音楽家が当然備えているべきとされた種々の作曲技法を身につけていないことを気にしていたようで、ラヴェルに出会った際に作曲を学ばせて欲しいと頼んだという逸話がある(その時のラヴェルの返答は「一流のガーシュインが二流のラヴェルになる必要はない」というものだったらしい)のだが、実はガーシュインはグラズノフにも同じようなことを頼んだらしいのだ。アレクサンドル・グラズノフ。ロシア音楽界の大御所であり、ショスタコーヴィチの先生でもある。そしてこのグラズノフは、ラフマニノフにとって忘れられない因縁の相手でもあった。

まだ若きラフマニノフ。本格的な作曲家のスタートとなるべき野心作の交響曲第1番、その初演の指揮がグラズノフだった。この初演は、グラズノフの指揮のまずさもあって散々な結果に終わる。これでラフマニノフはすっかり自信を喪失してしまい、暫く作曲の筆を折ってしまうのだが、そのグラズノフはガーシュインに何と言ったか。「対位法の知識のかけらもないくせに、このジャズ野郎」。実際こんな乱暴な言葉であったかは分からないが(グラズノフはこんなことを言いそうな人間ではあるが)、そのグラズノフの言葉にガーシュインがどれだけショックを受けたか、想像するにあまりあるものがある。

さて、ラフマニノフ。ラフマニノフは「ジャズ野郎」のガーシュインと違ってアカデミックな音楽教育を受けた。その中にはもちろん対位法もある。しかし実際には、ラフマニノフの音楽に対位法的なものは縁遠いように思われる。ラフマニノフのみならず、ロシア音楽の伝統の基にあるものはまず歌である。一方で、ドイツ的な思想・音楽の象徴とも言える対位法。その対位法の一様式であるフーガを、ラフマニノフはその交響曲の一部分に据えたのである。何故か。

ラフマニノフがこのガーシュインとグラズノフの逸話を聞き及んでいたか、定かではない。しかし、その話を知っていたかどうかにかかわらず、ラフマニノフの射程はグラズノフではなく、それより遠いところにあったように思われる。ラフマニノフが意識したもの、それはナチスドイツから逃れてきた亡命知識人達ではなかっただろうか。

亡命知識人にはドイツ・オーストリアからのユダヤ人が多く、彼らは自分たちを正統的なドイツ文化の担い手達であると認識していた(シェーンベルクの言葉「12音技法によってドイツ音楽の優位は100年保たれる」!)。そんな誇り高き亡命者達にとって、ラフマニノフなどロシアから来た単なるピアニストでしかなかったのでは無いだろうか。作曲もするの?ああそう、みたいな。

そんな彼らに、自分はロシア音楽のみならず、バッハ・ベートーヴェンから続くヨーロッパ古典音楽の伝統に連なる存在であるということを、ラフマニノフは彼らに認識させようと思ったのではないか。ピアニストではない、まず作曲者としてのセルゲイ・ラフマニノフを。そのための手段としての対位法。フーガだってちゃんと書けるんだぞ、と。

と、そんな思いが込められているかは知らないが、ラフマニノフがこの交響曲第3番を作曲した当時の音楽界、アメリカ合衆国、そして世界はそんな状況にあった。第2次世界大戦が始まるのは、もう少し後のことである。

(中田れな)

ラフマニノフ交響曲第3番の中間部。ここでフーガ(曲の一部分でフーガの要素を使った音楽が展開されるので、正式にはフガート)が展開されるのだが、なぜここにラフマニノフはフーガを書いたのだろうか。無論、音楽的必然性だけがあって特に意味など無いのかもしれないが、ここで少々空想を働かせてみる。

 

筆者が思い出すのは、ガーシュインの逸話である。《ラプソディ・イン・ブルー》などでジャズとクラシックの融合を果たしたガーシュインだったが、自身はクラシックの音楽家が当然備えているべきとされた種々の作曲技法を身につけていないことを気にしていたようで、ラヴェルに出会った際に作曲を学ばせて欲しいと頼んだという逸話がある(その時のラヴェルの返答は「一流のガーシュインが二流のラヴェルになる必要はない」というものだったらしい)のだが、実はガーシュインはグラズノフにも同じようなことを頼んだらしいのだ。アレクサンドル・グラズノフ。ロシア音楽界の大御所であり、ショスタコーヴィチの先生でもある。そしてこのグラズノフは、ラフマニノフにとって忘れられない因縁の相手でもあった。

まだ若きラフマニノフ。本格的な作曲家のスタートとなるべき野心作の交響曲第1番、その初演の指揮がグラズノフだった。この初演は、グラズノフの指揮のまずさもあって散々な結果に終わる。これでラフマニノフはすっかり自信を喪失してしまい、暫く作曲の筆を折ってしまうのだが、そのグラズノフはガーシュインに何と言ったか。「対位法の知識のかけらもないくせに、このジャズ野郎」。実際こんな乱暴な言葉であったかは分からないが(グラズノフはこんなことを言いそうな人間ではあるが)、そのグラズノフの言葉にガーシュインがどれだけショックを受けたか、想像するにあまりあるものがある。

 

さて、ラフマニノフ。ラフマニノフは「ジャズ野郎」のガーシュインと違ってアカデミックな音楽教育を受けた。その中にはもちろん対位法もある。しかし実際には、ラフマニノフの音楽に対位法的なものは縁遠いように思われる。ラフマニノフのみならず、ロシア音楽の伝統の基にあるものはまず歌である。一方で、ドイツ的な思想・音楽の象徴とも言える対位法。その対位法の一様式であるフーガを、ラフマニノフはその交響曲の一部分に据えたのである。何故か。

ラフマニノフがこのガーシュインとグラズノフの逸話を聞き及んでいたか、定かではない。しかし、その話を知っていたかどうかにかかわらず、ラフマニノフの射程はグラズノフではなく、それより遠いところにあったように思われる。ラフマニノフが意識したもの、それはナチスドイツから逃れてきた亡命知識人達ではなかっただろうか。

 

亡命知識人にはドイツ・オーストリアからのユダヤ人が多く、彼らは自分たちを正統的なドイツ文化の担い手達であると認識していた(シェーンベルクの言葉「12音技法によってドイツ音楽の優位は100年保たれる」!)。そんな誇り高き亡命者達にとって、ラフマニノフなどロシアから来た単なるピアニストでしかなかったのでは無いだろうか。作曲もするの?ああそう、みたいな。

そんな彼らに、自分はロシア音楽のみならず、バッハ・ベートーヴェンから続くヨーロッパ古典音楽の伝統に連なる存在であるということを、ラフマニノフは彼らに認識させようと思ったのではないか。ピアニストではない、まず作曲者としてのセルゲイ・ラフマニノフを。そのための手段としての対位法。フーガだってちゃんと書けるんだぞ、と。

 

と、そんな思いが込められているかは知らないが、ラフマニノフがこの交響曲第3番を作曲した当時の音楽界、アメリカ合衆国、そして世界はそんな状況にあった。第2次世界大戦が始まるのは、もう少し後のことである。

 

(中田れな)

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