ニールセン (1865~1931) 交響曲第4番〈不滅=滅ぼし得ざるもの〉作品29

nielsen-thumbグリーグに続く北欧の大作曲家といえばフィンランドのシベリウスが名高いが、デンマークのカール・ニールセンもまた、シベリウスと同様に交響曲を中心に独自の音世界を追求した芸術家であった。この二人は共に1865年生まれ。ドイツ・オーストリア系とも、またフランスやロシアの作曲家の交響曲とも一味や二味も違った装いをみせる二人の交響曲。本日はそのうちニールセンの、最もよく知られた交響曲である《不滅》を取り上げる。ニールセンの生涯はあまりよく知られているとは言えないので、少しその辺りを述べてみることとする。

作曲家として名を上げるまで

ニールセンはデンマークの農村地帯に生まれた。父はペンキ職人として生計をたてていたが、ヴァイオリンとコルネットが上手く、村の結婚式や祭りの時に楽師として演奏していた。そんな父の姿を見ていた少年ニールセンは、自らもヴァイオリンを手にするようになる。父から手ほどきを受けながらも、アカデミックな方法とは全く異なるやり方で音楽を習得。幼き頃から既に、即興的に演奏したり自分で作曲したメロディーを演奏していたという。

やがて、街に行った折にオルガン演奏を聞いたり軍楽隊にも入隊し、アカデミックな音楽も吸収していくニールセンだったが、それはあくまで自己流であった。アカデミックな環境で本格的に音楽を学ぶことを望んだ彼は、コペンハーゲンの音楽院を受験。ヴァイオリンでは不合格だったが、作曲では合格した。

在学中は弦楽四重奏曲を作曲して作曲の技法を磨く。目指すは交響曲の作曲だったが、なかなか上手く書き上げることが出来なかった。音楽院を卒業し、王立のオーケストラにヴァイオリン奏者として入団。ドイツに赴きワーグナーを研究するなどし、1892年、ついに交響曲第1番を完成させる。同じ頃、シベリウスは初の大作交響曲となる《クレルヴォ交響曲》を完成させている。二人は交響曲作曲家として、同時期にスタートをきった。

その後、ニールセンはオーケストラのヴァイオリン奏者の職を辞し作曲に専念する。作曲家として順調にキャリアを重ね、デンマーク音楽界の重鎮として指揮活動も活発に行う。1908年、王立劇場の指揮者に就任。作曲家としても作品を次々と発表し、名声は益々高まっていく。そして1914年に作曲を開始し、1916年に完成させたのが交響曲第4番《不滅》。農村の素人楽師の子供として出発しながらも、ニールセンは音楽家として輝かしいキャリアを築くに至ったのだった。ちなみに《不滅》完成の前年である1915年、シベリウスは交響曲第5番を完成させている。そのキャリアも、ニールセンとシベリウスは同じ時にピークに達したようである。

第一次世界大戦の勃発

そんな輝かしいキャリアとは裏腹に、この頃のニールセンは危機のさなかにあった。1914年に勃発した第一次世界大戦は、ヨーロッパ社会を大きく変動させた。デンマーク自体は兵を出すことはなかったが、ドイツ、フランス、ロシアやイギリスは毎日数万人単位の死傷者を出し、4年間もの間地獄を体験することとなる。ニールセンが4番の作曲を開始したのは1914年の夏のこと。大戦もちょうど夏頃に始まっている。そういった時代の空気をこの《不滅》の中に見出すのは、さほど見当違いではないだろう。

危機にあったニールセン

一方、王立劇場の指揮者としてキャリアを積んでいたニールセンにライバルが出現する。自身が指揮をするはずだった《トリスタンとイゾルデ》の指揮を、そのライバルが指揮を任されたことを知ったニールセンは、その地位を辞任する。躓くキャリアに妻との不和が重なる。彼の妻は彫刻家であり、自身の芸術活動も活発に行っていた。二人が共に過ごす時間は少なくなっていく。すれ違う二人、すれ違う心。1914年から既に夫婦関係は危機的なものに陥っていたという。二人は1916年から離婚協議に入り、1919年には離婚が成立している。

公私ともに危機のさなかにあったニールセンにとって、交響曲第4番は芸術上の回答であると言って良い。それは彼自身がこの交響曲に付けたサブタイトルにも表れている。今回は、日本で昔から広く使われてきた訳「不滅」を使ったが、原語の “Det Undslukkelige” は「滅ぼし得ざるもの」の方がニュアンスが近い。滅ぼすことが出来ないもの。「不滅」と比べると、強い何かが感じられる。最近ではこちらを見かけることも多い。

単一楽章の交響曲

曲は全体に切れ目が無く、始まりから終わり迄が一繋ぎに演奏が行われる。しかし、曲のキャラクターは明確に四つの部分に分かれていて、四楽章が全てアタッカで繋げて演奏される交響曲、と見做すことも出来る。一気呵成に進むこの構成は、劇的な緊張感を聴衆に感じさせることに成功している。こういった構成はニールセンの交響曲では初めてだが、次の交響曲第5番では、二部構成というさらに個性的な形式を採ることになる。

ニールセンはこの後、病気を機に離婚した妻と再婚。しかし、1931年死去。シベリウスは1957年まで生きるが、作曲の筆は1929年を最後に途切れる。期せずして、二人の同い年の北欧のシンフォニストは同じペースで歩みを続け、そして同じ頃に歩みを止めたのだった。二人の個性的な作曲家にとって、交響曲とはそして音楽とはなんであったか。ニールセンはこの曲のことを「音楽は生命で、そしてそれに似て『滅ぼし得ざるもの』である。この交響曲は、偉大な芸術のみならず、人間の魂までもが『滅ぼし得ざるもの』であることを強調すべく意図されたものである」と述べている。芸術とは何か、音楽とはなにか、そして交響曲とは。ニールセンの出した答えの一つが、この交響曲だったのである。

(中田麗奈)

ニールセン 18651931)  交響曲第4  〈不滅=滅ぼし得ざるもの〉  作品29

グリーグに続く北欧の大作曲家といえばフィンランドのシベリウスが名高いが、デンマークのカール・ニールセンもまた、シベリウスと同様に交響曲を中心に独自の音世界を追求した芸術家であった。この二人は共に1865年生まれ。ドイツ・オーストリア系とも、またフランスやロシアの作曲家の交響曲とも一味や二味も違った装いをみせる二人の交響曲。本日はそのうちニールセンの、最もよく知られた交響曲である《不滅》を取り上げる。ニールセンの生涯はあまりよく知られているとは言えないので、少しその辺りを述べてみることとする。

作曲家として名を上げるまで

ニールセンはデンマークの農村地帯に生まれた。父はペンキ職人として生計をたてていたが、ヴァイオリンとコルネットが上手く、村の結婚式や祭りの時に楽師として演奏していた。そんな父の姿を見ていた少年ニールセンは、自らもヴァイオリンを手にするようになる。父から手ほどきを受けながらも、アカデミックな方法とは全く異なるやり方で音楽を習得。幼き頃から既に、即興的に演奏したり自分で作曲したメロディーを演奏していたという。

やがて、街に行った折にオルガン演奏を聞いたり軍楽隊にも入隊し、アカデミックな音楽も吸収していくニールセンだったが、それはあくまで自己流であった。アカデミックな環境で本格的に音楽を学ぶことを望んだ彼は、コペンハーゲンの音楽院を受験。ヴァイオリンでは不合格だったが、作曲では合格した。

在学中は弦楽四重奏曲を作曲して作曲の技法を磨く。目指すは交響曲の作曲だったが、なかなか上手く書き上げることが出来なかった。音楽院を卒業し、王立のオーケストラにヴァイオリン奏者として入団。ドイツに赴きワーグナーを研究するなどし、1892年、ついに交響曲第1番を完成させる。同じ頃、シベリウスは初の大作交響曲となる《クレルヴォ交響曲》を完成させている。二人は交響曲作曲家として、同時期にスタートをきった。

その後、ニールセンはオーケストラのヴァイオリン奏者の職を辞し作曲に専念する。作曲家として順調にキャリアを重ね、デンマーク音楽界の重鎮として指揮活動も活発に行う。1908年、王立劇場の指揮者に就任。作曲家としても作品を次々と発表し、名声は益々高まっていく。そして1914年に作曲を開始し、1916年に完成させたのが交響曲4番《不滅》。農村の素人楽師の子供として出発しながらも、ニールセンは音楽家として輝かしいキャリアを築くに至ったのだった。ちなみに《不滅》完成の前年である1915年、シベリウスは交響曲第5番を完成させている。そのキャリアも、ニールセンとシベリウスは同じ時にピークに達したようである。

第一次世界大戦の勃発

そんな輝かしいキャリアとは裏腹に、この頃のニールセンは危機のさなかにあった。1914年に勃発した第一次世界大戦は、ヨーロッパ社会を大きく変動させた。デンマーク自体は兵を出すことはなかったが、ドイツ、フランス、ロシアやイギリスは毎日数万人単位の死傷者を出し、4年間もの間地獄を体験することとなる。ニールセンが4番の作曲を開始したのは1914年の夏のこと。大戦もちょうど夏頃に始まっている。そういった時代の空気をこの《不滅》の中に見出すのは、さほど見当違いではないだろう。

危機にあったニールセン

一方、王立劇場の指揮者としてキャリアを積んでいたニールセンにライバルが出現する。自身が指揮をするはずだった《トリスタンとイゾルデ》の指揮を、そのライバルが指揮を任されたことを知ったニールセンは、その地位を辞任する。躓くキャリアに妻との不和が重なる。彼の妻は彫刻家であり、自身の芸術活動も活発に行っていた。二人が共に過ごす時間は少なくなっていく。すれ違う二人、すれ違う心。1914年から既に夫婦関係は危機的なものに陥っていたという。二人は1916年から離婚協議に入り、1919年には離婚が成立している。

公私ともに危機のさなかにあったニールセンにとって、交響曲第4番は芸術上の回答であると言って良い。それは彼自身がこの交響曲に付けたサブタイトルにも表れている。今回は、日本で昔から広く使われてきた訳「不滅」を使ったが、原語の “Det Undslukkelige” は「滅ぼし得ざるもの」の方がニュアンスが近い。滅ぼすことが出来ないもの。「不滅」と比べると、強い何かが感じられる。最近ではこちらを見かけることも多い。

単一楽章の交響曲

曲は全体に切れ目が無く、始まりから終わり迄が一繋ぎに演奏が行われる。しかし、曲のキャラクターは明確に四つの部分に分かれていて、四楽章が全てアタッカで繋げて演奏される交響曲、と見做すことも出来る。一気呵成に進むこの構成は、劇的な緊張感を聴衆に感じさせることに成功している。こういった構成はニールセンの交響曲では初めてだが、次の交響曲第5番では、二部構成というさらに個性的な形式を採ることになる。

ニールセンはこの後、病気を機に離婚した妻と再婚。しかし、1931年死去。シベリウスは1957年まで生きるが、作曲の筆は1929年を最後に途切れる。期せずして、二人の同い年の北欧のシンフォニストは同じペースで歩みを続け、そして同じ頃に歩みを止めたのだった。二人の個性的な作曲家にとって、交響曲とはそして音楽とはなんであったか。ニールセンはこの曲のことを「音楽は生命で、そしてそれに似て『滅ぼし得ざるもの』である。この交響曲は、偉大な芸術のみならず、人間の魂までもが『滅ぼし得ざるもの』であることを強調すべく意図されたものである」と述べている。芸術とは何か、音楽とはなにか、そして交響曲とは。ニールセンの出した答えの一つが、この交響曲だったのである。

(中田麗奈)

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