安定した地位
ドミトリー・ドミトリエヴィチ・ショスタコーヴィチ、57歳の時の作品。1963年作曲。ショスタコーヴィチは1975年に死去するので、既に晩年に入りかけた頃の作品であるといえる。その作曲家としてのキャリアにおいて、幾度と無く政治からの圧力を受け続け何度も苦汁を飲んだショスタコーヴィチであったが、この頃になると社会も一応の安定を見せたこともあり、西側にまで名声が届く大作曲家としての地位が確立し、生活もやっと平穏なものとなった。
演奏会プログラムの曲目解説からの抜粋です。
ドミトリー・ドミトリエヴィチ・ショスタコーヴィチ、57歳の時の作品。1963年作曲。ショスタコーヴィチは1975年に死去するので、既に晩年に入りかけた頃の作品であるといえる。その作曲家としてのキャリアにおいて、幾度と無く政治からの圧力を受け続け何度も苦汁を飲んだショスタコーヴィチであったが、この頃になると社会も一応の安定を見せたこともあり、西側にまで名声が届く大作曲家としての地位が確立し、生活もやっと平穏なものとなった。
ベートーヴェン自身が標題をつけた交響曲は第3番〈エロイカ=英雄〉と第6番〈田園〉の2曲。〈運命〉というのは、ベートーヴェンが冒頭部①について「運命は、こう扉を叩く」と語った、と弟子のシンドラーが伝えたことに由来する俗称なのだが、これに関して、欧米と日本では扱いが正反対なことは良く知られている。一番はっきりしているのがCD等のジャケットで、邦盤では〈運命〉という表記が既定事実化しているのに対し、外盤で「Schicksal(独)」や「Fate(英)」とクレジットされている例は皆無に近い。但し、解説には使われているし、実際、ロマン派以降の作曲家達は「運命」という意味を含めて、この曲の冒頭主題を様々な形で引用しているのである。
現在、ベルリオーズの作品の中で最も良く知られている《幻想交響曲》だが、それは彼の作品の中では最も初期の部類に入る。1830年の春頃の完成だが、この時はまだ26歳という若さであった。完成後、同年の12月にパリにおいて初演が行われ、ベルリオーズは一夜にして話題の人・時の人となる。それは言うまでもなく《幻想交響曲》のセンセーショナルな成功の故であった。多種多様な楽器による多彩な響き、作曲家自身によって付けられた標題とそれを解説したプログラム。ハイドンの交響曲に馴れ親しみ、ベートーヴェンの交響曲でさえ最新の音楽であったこの時代、《幻想交響曲》は極めてショッキングなものであった。
〈死と変容〉という標題からは、晩年の作品と考えられがちだが、実は全く反対で、25歳(1889年)の時の作品である。表のように、一連の交響詩は初期に集中して書かれているため、シュトラウスの生涯は、1898年(34歳)以前の“交響詩の時代”と、それ以降の“歌劇の時代”の2つに、大きく分けることができる。ただし、それとても、表現主義的な作風が、その時点でがらりと変わったわけではなく、「音による表現に言葉が加えられただけ」と言えないこともない。
ラフマニノフ交響曲第3番の中間部。ここでフーガ(曲の一部分でフーガの要素を使った音楽が展開されるので、正式にはフガート)が展開されるのだが、なぜここにラフマニノフはフーガを書いたのだろうか。無論、音楽的必然性だけがあって特に意味など無いのかもしれないが、ここで少々空想を働かせてみる。
ロシア革命勃発後、レーニン率いるボルシェビキ政権を嫌って多数の文化人・芸術家がロシアから亡命したが、ラフマニノフもその中の一人であった。亡命後、ラフマニノフはアメリカ合衆国に居を構え、まず生活の糧を得るためにピアニストとして活動を展開する。ラフマニノフは優れたピアニストであり(その演奏は録音も多く残っていて、幸いにもラフマニノフの演奏様式がどんなものであったか後世の私たちは耳で確認することが出来る)、ラフマニノフのピアノ演奏は非常に高い人気を獲得したのだが、その反面、演奏家として多忙を極めたために作曲家としての活動は不十分なものとなってしまった。